図と地の認知

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今、目の前に半分だけ水が入ったコップが置いてあるとする。「水が50ml入っている」と量を描写する方法を除けば、大きく次の2通りの表現が可能だろう。

  1. 水がまだ半分も残っている
  2. 水がもう半分しか残っていない

どちらも半分ほど水が入ったコップを表しているが、その捉え方が異なる。1つ目の例は水の残り部分に注目しているのに対し、2つ目の例はグラスの空の部分を指した表現だ。

ここで、前景化される部分をFigure(図)、背景化される部分をGround(地)と呼び、このような知覚的差異が現れる現象を図地分化と呼ぶ。1つ目の「水がまだ半分も残っている」であれば、半分残っている水に対し話し手が認知的際立ち(cognitive salience)を感じることで、水を前景化しFigure、グラスの空の部分を背景化しGroundと捉えたと考えられる。

図地分化が最も端的に現れる例が、有名なルビンの壷だろう。下の絵の白い部分をFigure、黒い部分をGroundとすれば、優勝カップのようなものが浮かび上がってくる。一方、黒い部分をFigure、白い部分をGroundとすれば、向かい合っている顔が現れる。

rubins-vase

このように、物事の判断は人間の主観によっていくらでも変化しうる。「知覚と感覚には1対1の対応関係がある」と主張する恒常仮定(constancy hypothesis)では、様々な知覚現象を説明するには不十分なのだ。

これは言語表現においても同様である。語句・構文・テクストのいずれのレベルにおいても、言語表現は話し手の解釈(construal)を示すものである。たとえ似たニュアンスを持っていても、表現が異なれば意味が異なる。外国語教育で言われるような「言い換え」はありえない。

次の2つの表現を比較してみよう。

  1. The bike is near the house.
  2. ? The house is near the bike.

どちらも主語+動詞の「第一文型」と言われるが、1つ目の文章が問題ないのに対し、2つ目の文章は特殊な状況以外容認されない。

まず、1つ目の文章はThe bikeがFigure、the houseがGroudとして知覚されている。定義によりGroundはFigureの背景であるため、より大きなthe house(家)が背景となり、the bikeに際立ちが与えられるのはごく自然と言える。

一方、2つ目の文章はThe houseがFigure、the bikeがGroundとなっている。家と自転車というモノ同士の比較において、よりサイズの小さい自転車をGroundにするのは、人間の認知から言って自然ではない。そのため、The houseに認知的際立ちを与えなければならない特殊な事情がない限り、不自然な文章となってしまうのだ。

仮に、言語表現が規則によって1つに決まる静的なものであると考えるなら、この2つの文章はどちらも「文法的に」正しいと結論付けられてしまう。しかし、ことばは人の認知が介在するという認知言語学の原則に従えば、これまで例外として処理してきた不自然な表現を論理的に説明することができるのだ。

 

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